Hiro's page


'87 新宿「J」でのセッション

  1987年6月27日、ここ「J」のステージで私はチェット・ベイカーと並んでトランペットを吹いた。
あの夜、日本での最後のコンサートを終えたその足で「J」に現れたチェットはとても上機嫌だった。運の良いことにチェットのバンド・メンバー達もたまたま「J」に集まってきて、ごく自然にアフターアワーズ・セッションが始まり、結果、来日前は誰も予想をしていなかったチェットの力強くエレガントなトランペットと味わい深いボーカルは、あの時偶然「J」に居合わせた全員を魅了した。

  3曲ほど終わった時、チェットは私をステージに呼び上げた。「ブルースより少しだけ明るい感じで行こうぜ…」そんなチェットの一言で始まった曲はH.モブレイの「ファンク・イン・ディープ・フリーズ」だった。
今だから言えるが、あの時本当は簡単な12小節のブルースを演る筈だった。ところがいざ始まってみると、チェットは突然、ブルースではなく何度も転調のある36小節のバップ・チューンに曲を変えたのだった。私はチェットが吹きはじめたメロディを必死に追いかけながら、内心このセッションに安易に挑んでしまった自分を悔いていた。延々と続く8バースのトランペット・バトルの間、私は細かいコードの流れさえも掴めぬまま、チェットのラッパから溢れ出るビッグ・トーンに負けまいと、ただ自分の楽器を吹き鳴らすより術がなかった…。


  あれから19年が経った。あの来日から1年を経ずしてチェットはこの世を去り、その後NYで出版された彼の伝記「終わりなき闇/チェット・ベイカーのすべて」の邦訳版もようやく今春日本で発刊された。全500ページにわたるその分厚い本の冒頭で、著者ジェームス・ギャビンは私の名を挙げ、日本人のトランペッターヒロ・カワシマは「チェットは僕にとって"仏陀"のような存在だった」と語った、と書いている。実のところ、私はそんなコメントを発言した覚えはない。おおかたチェットの周りの人間があの来日時を回想してチェットと僕の間柄をそんな言葉で表現したのだろう。
しかし、その後に続く「いわゆる人生の師としてチェットを尊敬していた」というくだりは間違ってはいない。なぜなら、チェットとの出逢いが私に遺してくれた素晴らしい経験の数々は、結果的にその後の私の人生を大きく変えてしまったからだ。そのひとつがあの夜の「J」でのトランペット・バトルであることは言うまでもない。
正直なところあれは当時の私の技術からして「無謀」としか言いようのない演奏だった。しかし後になって、あの時一緒に演奏したメンバーがオランダから電話をくれて「あの時のチェットと君の演奏はまさに固い絆で繋がれた師弟同士だった。俺は正直、胸が熱くなったよ…」と言ってくれたのだ。
私はその一言をきっかけに、あの時「J」の店内カメラが偶然捉えていたセッションのVTR映像をもう一度冷静に見直してみることにした。あらためて観てみれば、そこには白熱するトランペットバトルの最中、終始私の吹く音に反応し、そして時に私を気遣うチェットの姿が映っていた。彼の様子は気取りがなく、その屈託の無さはまるで20代の若者のようだった。
それは言い換えれば、まるで50年代のL.A.のハーモサ・ビーチで毎晩のように繰り広げられた"かつて"のチェット達…まさにウエスト・コースト派の歴史的ジャム・セッションに、あの晩「J」に居合わせた全員が、そろって彼のマジックによって一瞬タイム・トリップしてしまった…とでも言うべきまさに「夢」のような瞬間だった。

  私はその後このセッションの映像を自分のバンド「ラブ・ノーツ」のDVD作品「ALBUM-1」に収録しリリースした。 なぜならば、ただでさえ少ないチェットの映像の中でも、これほど彼が"幸せそう"に振舞う映像はどこを探しても他に見つからないからだ。VTRには残っていないが、なんと興に乗ったチェットはセッションの後で、自分からピアノに座り、先ほど演らなかった12小節のブルースコードを弾きはじめると、自分の伴奏で僕にトランペット・ソロを吹かせたのだ。そんな時のチェットの姿を、演奏を、身振りを・・・ドラッグ漬けになったチェットしか知らない世界中の人達に是非観てもらいたかったのだ。
「J」は私にとって一生忘れることの出来ない思い出を作ってくれた大切な場所。多分これからもこのステージに立つたびに私は自分の隣にチェットの波動を感じずにはいられないだろう。(ヒロ川島)

☆このエッセイは「J」新聞2006年5月号に掲載されたものに加筆したものです。